600年前から続く
臨済宗の名刹
関興寺
臨済宗円覚寺派最上山関興禅寺
御本尊は釈迦牟尼仏である。
今から約600年前の室町時代。応永17年(1410年)に、関東管領・憲顕公の子である覚翁祖傳(かくおうそでん)が創始し、普覚円光禅師(ふかくえんこうぜんじ)を招いて開山が始まりと言われている。
以来、上杉家の由緒寺院として栄え、上田長尾家・鎌倉公方足利持氏公の厚い信仰により、永享8年(1436)に永楽120貫文の寺社領として御朱印地をいただき、長尾房景公と上杉房定公が伽藍(がらん)を造営し、多くの寄付を受け勢いが盛んになる。
しかし、戦国時代になると永正9年(1512)永正の乱、天正6年(1578)上杉氏家督争いの御館の乱により戦火に巻き込まれ、寺運は次第に衰退していく。
慶長5年(1600)関ケ原合戦後、上杉家が120万石を奪われ、米沢30万石を移されると景勝公の命により、米沢・関興庵が建立され第三十二世東岩和尚が住職になる。
寛永6年(1629)4度目の火災により、寺運の衰退はその極みに達したが、荒廃した越後・関興庵を憂いた綱勝公の命により、寛文年中、現在地に越後・関興庵が再興される。萬源和尚が第三十七代住職となり、ようやく寺運が回復し、上杉家の由緒寺院として徳川幕府より、10万石別格本山の格式を繁栄の時を迎えた。
当時の修行僧は、その数300人を超え甲信越における臨済禅の一大禅道場としてその名を広め、多くの禅知識、名僧や高僧を世に輩出した。
中峰和尚袈裟切りの塔
江戸時代、母の仇を狙っていた小僧が関興寺の弟子となり、修行していたが、夜な夜なその仇を狙い、武芸の稽古に励んでいた。
ある晩、母の仇が目の前に現れたので、その小僧は、稽古をしていた鎖鎌で、二度相手に向かい投げつけ、近寄って見てみると、その仇は、なんと関興寺の初代住職の墓の石であった。慌ててその事を寺の住職に告げると、出家の身でありながら、いつまでも人の命を狙っているお前の心を改心させるために、この関興寺のご開山が自らその墓の石によって、その思いを断ち切るように身代わりとなったのであろうと、これよりは人の命を狙うのではなく、人の命を生かす立派な僧になるよう修行に励むことが寛容。
そう諭されると、その小僧は、心を改め懸命に修行を積み重ね、立派な高僧になったと伝わっている。これが、中峰和尚袈裟切りの塔のいわれである。
関興寺の味噌なめたか
上杉家の家督相続の戦乱の時、600巻の大般若経典を燃えないように、寺の味噌の中に入れて、戦火から守ったと語り継がれている。
登龍の滝・昇龍の滝
関興寺には、登龍の滝と昇龍の滝がある。
登龍の滝は、池の鯉がその滝を登ると龍に化身をするという中国の故事に習いつくられた滝であり、その滝を登り、さらに龍の住む池より、昇龍の滝、龍の昇る滝をさらに昇っていくと、その龍は飛龍・天龍と呼ばれる龍に変わることができるとされる。
禅寺の修行僧が修行を積み重ね、その悟りの深さにより、やがて大いなる悟りに至るということを登龍の滝、昇龍の滝になぞらえ、この寺の境内につくられている。
フォトギャラリー
ストーリームービー
観光情報
名称 | 関興寺 |
---|---|
住所 | 新潟県南魚沼市上野267 |
電話番号 | 025-783-2111 |
拝観時間 | 9:00~16:30 |
定休日 | 通年拝観 (12月中旬~3月末は事前にお問い合わせください) |
駐車場 | 10台 |