「雪に活きる」
地域と共に歩んだスキー観光
南魚沼の民宿
雪に活きる
いまやスキー観光地として全国に広く知られるようになったこの地域に、人が訪れるようになった契機は昭和6年(1931年)のこと。上越線が全線開通して石打駅には関東方面から湯治客が来て、次第に賑わうようになりました。
昭和10年頃の石打駅前には大熊屋(おおくまや)・旭館(あさひかん)・高半(たかはん)支店(してん)、関(せき)の宿場には油屋(あぶらや)、問屋(とんや)などの旅館が、上野(うわの)・上村(うわむら)にも湯治宿がありました。
農業を主な産業としていた当時の石打地区は、山と山に挟まれた平地が少ない土地柄のため耕作面積が少なく、農業で生計を立てることは困難でした。
そのことから一年のうち半分近くも出稼ぎに出て、親子・夫婦が分かれて暮らし、正月の餅つきの人手も欠くほど極限的な生活環境にありました。
しかし戦後になると、スキーが進駐軍や都会の上流階級の遊びになり、岩原(いわっぱら)や布場(ぬのば)スキー場にスキー客が来るようになりました。
昭和24年(1949年)湯沢開催のスキーインターカレッジが雪不足で石打で開かれ、これを機に石打にもスキー場開設の動きが始まりました。
まだ東京は復興半ばであり食糧難も続いていたため、彼らはスキーと食糧を求めて石打を訪れてきました。
都会は食糧難の時代であったものの「田舎では米や野菜を作っていたし、ほとんどの家で牛も飼っている。鶏の卵もあったので、これを利用してスキー客を泊めたらどうだろう」という話から、農家の副業、現金収入の場としてスキー観光が取り入れられ民宿が始まりました。
民宿の“おもてなし”は本当に心からのもので、人を大事にするマンツーマンのサービスでした。石打駅までそりを引いてお客様を迎えに行って荷物を積んで家まで来てもらい、お客様の湯加減を聞きながらお風呂のお湯を湧かし、その家で一番いいものを振る舞いました。
その源には、自分たちが育てた一番おいしい米・野菜をお客様に提供したいという心があります。
民宿を経営する農家は自分の作った米に誇りを持っていました。なぜなら田植えから精米まで、全て自分でやっていたからです。「これが私の作った米です」と自信をもってお客様に提供していました。
戦後は食糧難だったため県は多収米を推奨しましたが、県の技師たちは量より質の時代を見据えて良質米に取り組みました。それが、かの有名なコシヒカリです。
同じ南魚沼、石打の中でもより美味しいコシヒカリを作ろうという競争がありました。実際に石打を訪れた人たちが民宿でコシヒカリを食べて、口コミで拡散し、そのブランド名は爆発的な勢いで広まっていきました。
スキー観光と米、農業の副業として始めた民宿がうまくマッチングしたので、いまの日本有数のスキー観光地や南魚沼産コシヒカリがあると言っても過言ではないでしょう。
現在、この地域には200軒を超える個性豊かな民宿があります。南魚沼の「自然」「コシヒカリ」「温泉」「スキー」「人」「食」は五感で楽しませ、旅をより豊かなものにしてくれることでしょう。そして、地域と共に歩み続けた物語を知り、ここでしか味わうことのできない出会いが待っています。
フォトギャラリー
ストーリームービー
観光情報
名称 | 一般社団法人 南魚沼市観光協会 |
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住所 | 新潟県南魚沼市下一日市855 |
電話番号 | 025-783-3377 |
営業時間 | 8:30~17:30 |
定休日 | 元旦のみ(その他不定休) |
駐車場 | 150台 |